2006年 02月 09日 ( 1 )

インターネットだとか、ブログだとか、***だとか、、、、、
目に触れ手に触れる目新しいもの、、なおかつ、ポケットに持ち合わせる以上の費用や特別の修練の要らないもの、、、そういったものに  関心がもてるかどうかは人によってかなり違うものだとわかった。 ごく常識的なことなのかもしれないが、、、

きのう、パソコンソフトを一緒に世に送り出した仲間の書店さんと話をしていて、そういわれた。あたらしいことを知りたい、とか、何かわからなかったことがわかるようになったときの感激とかいった感情は万人共通することではないのだろうか、

私にとって、ほんの少しの未来がこんなふうではないかなと考えることは、考えてみるということを楽しく感じるとかおもしろくないとかとかいうことでなく、生きるうえで重要な要素ではないかとおもっている。少し未来の楽しいことは「希望」であり、少し未来の危険を考えて予防することは自分の身を守るために誰しもがすることではないのだろうか、、

荒唐無稽 空想 夢想 そういうことにうつつをぬかしている間があったら、目の前の仕事をこなせ、パンを稼げというほうがよい生き方なのだろうか、、、

そんなことを考えながら暗闇を走り抜ける電車に揺られて家路についていた。仕事バリバリだけでなくパソコンも地元での活動もしっかりとこなしている方なのだが、「まだぶろぐもようわかれへんねん」といわれたとき((へ?))と思ってしまった。いろんなひととはなしていると、どうもブログがこれだけメディアに頻繁に登場しているにもかかわらず、まだまだマイナーなのだということがわかった。

いま、私を取り巻く社会の中で 「常識」という言葉が無意味になっているような気がする。「知っているということと知らないということ」、「できるということとできないということ」そういった、情報とかの個人としてのいわゆるリテラシーが、ごく身近な社会の中で とてつもない個人差がでているのではないかと感じた。人は一人で生きていくことは難しい、いろいろな形の社会に属している。その中で共通の土俵の上で言葉を交わし、支えあって生きているはずなのだが、いくつかある共通な土俵、そういった基盤が増えているにもかかわらす、そうした基盤が狭いものがばらばらとなって、距離とは別の疎外感を生んでいるのかもしれない、、

相手の土俵に立って、相手をよくみて、コミニケーションをとる、ともに生きる、そういった相手のたっているところを思いやる気持ちがさらに求められる時代になりつつあるということなのかもしれない。
[PR]